「桐、ごめんなさい。もう勉強会は今日まででおしまいよ」
ある日突然、佳子がそんなことを言い出した。しかし妾は「なぜ」だとか「寂しい」といった言葉を口にしなかった。
その頃の妾はもう、不自由なく言葉を話せていた。それと同時に、この時代の常識も身につけていた。
佳子に“その時”が来たのだとわかったから、残酷な疑問を口にすることはできなかったし、する必要がなかった。
「どこに行くの?」
「…………すごく遠く。西の、都の豪族のところよ。――ほら、私って誰が見ても奇麗でしょう?だから、都の豪族にまでその噂が伝わって妻になることになったの。もちろん正室じゃないけど、でも、ウチからすると普通ありえないような話。当然、断る理由はないし断ることもできないわ」
そう言う佳子には表情というものが感じられなかった。
その姿からは自分自身を政治の道具。家をより発展させるための機構の一つに数えているのだということが、当時の妾にすらわかった。
――そんな彼女を、捨て置くことなんてできなかったのは当然だろう。
「私も一緒に行く。……この家は十分、栄えたから。今回の縁談もきっと、私がいたからこそ。――私のせいなの。だから、ずっと佳子の傍にいるよ」
「――せいって何よ、せいって。それを言うならお陰、でしょう。それに別に桐なんかいなくても今回の縁談はあったわ。自惚れないでくれる?」
「そう。じゃあ、友達として一緒に行きたい。ダメ?」
「ダメって……そもそも桐に縁談なんて来てないわよ。まあ、桐も私ほどじゃないにしろ、まあまあ奇麗だから気に入られないことはないかもだけど……でも、いつまでも成長しないあなたのことを隠し通せるとは思えない。後、そんなの私がごめんだから」
「そうじゃなくて。私は今はこうして佳子たちの前に姿を現しているけど、そうすることだけが座敷童ではない……んだと思う。その気になれば他の人に見つからず、佳子にだけ気づかれる存在でもいられる。だから、そうして佳子の傍にいたいの」
「それ、私に同情してるの?顔も見たことのない人の妻になる私に?」
「違うよ。友達として、佳子の傍にいたい。都には家族も友達も他にはいないから。だから、私が一緒に行く。……佳子が嫁げば、お家は安泰なんでしょう。だから私が立ち去ってもこっちは大丈夫」
「…………なんでそんなに優しいの?」
佳子は今にも泣きそうな顔で。妾にそう言った。
「桐はこれから、何百年も生きるんでしょ。私は絶対に先に死ぬ。でも、桐はしばらくは私のことを覚え続けてるでしょ?それが桐の悲しい思い出になるなら、これ以上は一緒にいて欲しくないわ。……私の数十年より、桐の数百年の方が長くて、大事だから」
「――何言ってるの、佳子」
心から。本当に心の奥底から、妾は佳子を笑ってやった。
「な、何を笑うことがあるのよ!?」
「今別れたら、それで私が佳子のことをすっぱり忘れられると思ってるの?――もう既に佳子は私の“特別”だよ」
「なんでよ?桐にとっては私なんて、これから何百……ううん、何千、何万と会う人の内の一人でしょ。絶対にすぐに忘れるわ。なら、別れるのが今でもいいじゃない」
「…………佳子って本当にバカ?」
妾は笑うのをやめて、佳子の顔を見つめた。
「今の桐よりはマシよ。まだ言葉は話せても、文字はロクに書けないじゃない」
「それ、でしょ」
「えっ?」
「佳子は私に言葉を教えてくれた。桐っていう名前を付けてくれた。こんなの、私の一生がどれだけ長くても何度も経験できるようなことじゃない。――私の名前はもう一生、桐なんだもん。だから、私を桐にしてくれた佳子は特別」
「それは…………。で、でも、時代が変われば桐って名前が時代遅れになるかもしれないわ。だから、その時は今度は自分で名前を考えたりしたら……」
「ううん。私は桐がいい。佳子のくれたこの名前が一番好き。もちろん、佳子のことも大好き。だから……」
「はぁっ…………後悔しても知らないから。私、ちゃんと止めたからね。私が死んでから泣かないでよ。私に罪はないんだから」
「うん。でもね、佳子」
「……なに?」
「やっぱり私、泣いちゃうと思う。でも、その後はまた笑顔になるから。また別の人を幸せにするよ」
「そう。まっ、いつまでも泣いてるんじゃないならいいわ。ちょっとぐらいは泣いてもらった方がやっぱり……嬉しいしね」
そうして、佳子と妾は都へと向かった。
時代にして奈良時代。平安への遷都を控えていたが、当然ながら当時の妾たちが知るはずもない。
はじまりの日
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