はじまりの日

 平城京にやって来た佳子は、すぐに某かという豪族の側室の一人として、それなりに立派な屋敷の一室をあてがわれ、そこで一生を過ごすようになった。
 妾にはそれがさほど残酷なことのようには感じなかった。というのは、既に豪族の娘がどういった人生を歩むのかを知っていたからだ。
 ただ、実際にその退屈な生活を目の当たりにすると、疑問を抱かざるを得なかった。
「まるで罪人みたい」
 佳子は昼間は書物を読み、都の豪族として恥ずかしくない程度の教養を身に着けていた。やはり田舎での勉強には限りがあり、こちらではより詳しく、尊い身分に相応しい教育を受けられるらしい。
 一方で、実家にいた時のように外に出ることはなくなり、佳子の肌は見るからに不健康そうだと感じるほどに青白くなっていった。
 佳子は豪族の娘であるものの、田舎の裕福ではない家の出身だ。野山を駆け回るぐらいのことはしていて、妾も一緒になって遊んでいたというのに。
 佳子の傍にいることを決めた妾もまた、必然的に外の日差しを浴びることはなくなっていった。
「桐、退屈でしょ?たまには外に行きなさいよ」
「ううん。佳子と一緒に勉強したい」
「勉強って、これは唐の書物よ?桐はまだ読めないでしょ」
「でも、字の形を覚えるぐらいはできるから。それに、家から結構本は持ってきてるし」
「桐は勉強家ね……人間の私よりも人間のことを学ぶのが好きみたい」
「佳子が最初に勉強を教えてくれたからこそ、好きになったんだよ?」
「はぁ、そうだったわね。――ねぇ、それじゃついでに、話し方の勉強相手もしてくれない?」
「えっ?私じゃなくて、佳子の話し方?」
「うん。なんというかね、今のこういう話し方は都的じゃないのよ。私としては結構奇麗に話してるつもりだけど、やっぱり田舎豪族の口調っていう訳。だからもっと格調高い喋り方をしろって言われていて……でも照れくさいのよ。だから、まずは桐を相手に練習しようと思って」
「別にいいけど……どんな話し方なの?」
「笑わないでよ?」
「話し方による」
「…………これ、その方。妾のために湯など持って参れ」
「えっ」
「仕方がないじゃろう!妾とてこんな話し方をしていて楽しい訳ではない……じゃが、真に尊い者はこういった話し方をするものなのじゃ」
「そ、そうなんだ……。なんか、おばあさんみたい」
「格式張った口調だからねぇ……でも、これが必須技能なのよ」
「奥さんになるって、簡単なことじゃないんだね」
「本当にね。それでやることなんて、一生の間にほんの数える程度、夫に会って、子どもを作って……後はずっとここにこもっているの」
「それが豪族の女の一生……」
「ついでに言うと、都の、ね。田舎ならもっと自由はあるわよ。私の母様がそうだったでしょ?」
「あっ、確かに」
 妾は思った。これが本当に“幸せ”なのかと。妾が招いた幸福が、これなのかと。
 佳子の家はもう安泰だろう。貧乏豪族などとはもう言わせない。都の豪族の親族となったのだから、多大な支援を受ける。それは同情などではなく、都側のメンツのためだ。家族のひとつが貧乏暮らしをしているなどと知られれば、いい恥になる。だから、誰に見せても恥ずかしくないだけの屋敷が新しく建てられ、もう佳子の母が家事をしなくてもいいよう、使用人が何人もあてがわれ、彼女の家族は幸せに暮らし続けるだろう。
 しかし、当の佳子本人は。
 妾の友人で、妾がもっとも幸せになって欲しいと願った相手は。このままゆっくりと死んでいく。
 何かに不自由することはない。
 “今を不自由に感じるほどの自由を与えられないのだから”
 初めから一つしか選択肢を与えられていなければ、それを選び続けることがおかしいとは感じない。佳子はこれからの時間でそれを身をもって経験し、十年もすればこの小さな空間に収まって当然だと感じるようになっているのだろう。
「佳子。私、ずっと傍にいるから」
「ありがとう、桐。……でもね、私思うんだ」
 佳子は曖昧に笑って。それから。
「多分、後五年もすれば私、桐が嫌いになっちゃうわ」
「えっ…………?」
「桐が悪いんじゃない。桐は何も悪くない。だけど、私は……桐が妬ましくなってしまう。桐はどこにだっていける。人じゃないんだから、人の世の仕組みに囚われない。無理矢理それに組み込まれそうになっても、桐はきっと逃げ出すし、桐が人じゃないとわかったら、きっと排斥される。桐が囚われることはない」
 佳子はうっすらと笑顔を浮かべて。しかし、瞳は静かに揺れていた。
「私とは真逆。これから好きなように好きなだけ生きられる。それがきっと、妬ましくなる。――だからね、桐。やっぱりそろそろ別れましょう。私は桐を嫌いになりたくない。ある日突然、冷たく“もう来るな”なんて言いたくない。だから、今ここで別れるの。私の勝手だと思う。私のことを恨んでくれていい。でも、私は桐を好きでいたいから……もう会えないの」
「……嫌だよ、佳子。私、佳子に嫌われてもいい。殴られても、何をされても。佳子なら許せる。それが佳子の助けになるなら、なんだってするよ」
「桐…………」
 妾はもう、わかっていた。この時点でもう、妾はそこまで愚かではなく。そして、本当に佳子が大切だった。
「でも、佳子はそれを望まない」
「…………うん、そう」
「だから、私たちはもう別れないといけないんだね」
「うん、そうなんだ。……ごめんね、桐」
「謝らなくていいよ。佳子を嫌いになったりしないから。でも、だから…………ここまでなんだね、私たち」
「桐………………」
「佳子。多分きっともう、私はあなたの前に姿を現さない。だけど、あなたのことは見守り続ける。佳子が幸せに生きられるように、幸せを与え続けるよ」
「桐。それって……」
「私はこの屋敷に“憑く”。だからもう、憑くのをやめない限りは佳子と話すこともできないし、佳子の様子もなんとなくしか伝わらない……でも、私はこの屋敷の一部になるようなものだから。ずっと私が佳子を守るよ」
「……ねぇ、桐。それって、あなたをこの屋敷に縛り付けることになるんじゃないの?私がこの屋敷に縛り付けられるように、あなたまで……」
「ううん。これが座敷童として当然のこと。今までが異常だったんだよ。たまには私に、座敷童らしい仕事をさせて?」
「…………桐」
 この時から、妾の長きに渡る、人前に姿を現さずに家に宿り続ける生活が始まった。
 無論、家を転々とする度に姿を現し、その時に人と交流を持つこともあったが、妾は佳子との交流ではっきりと理解した。
 妾は人ではないのだと。
 そして、人ではない者が人と関わった場合。深く関わり、親しくなり過ぎた場合。その末路は不幸なものでしかないのだと。
 だから、妾はもう佳子と会わなかった。
 毎日会ってはいたが、言葉を交わすことはなかった。ただ、この家に縛り続けられる気持ちを共有し。そして……彼女が二度とこれ以上の不幸に見舞われないよう。妾の幸福で包み込むことを決めた。
「さようなら、佳子」
「…………さようなら、桐」
「んっ…………」
 最後に妾たちは抱き合って。そして、別れた。

1 2 3 4 5